忍者ブログ
RECENT COMMENT
[09/18 アン]
[07/06 345]
[07/06 長一郎]
[07/05 345]
[06/27 ディディエ・ドゥコワン]
RECENT ENTRY

ちょうさんのがははは・・日記

 いらっしゃーい!!疲れた人の心に 潤いをでー。  生きることをたのしまにゃーね。だもんで 精一杯 明るく楽しくいきるがでー。つらいことも くるしいことも わらいで ふっとばそうかいねー。
03 2024/04 1 2 3 4 5 67 8 9 10 11 12 1314 15 16 17 18 19 2021 22 23 24 25 26 2728 29 30 05
BG CHANGE
CLICK HERE!

04.19.08:45

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

  • 04/19/08:45

05.06.17:57

生きるということ・・生かされるということ・・・。...

 こんにちは!!長一郎 こと ちょうさんですじゃ・・。ちと むかしの日記から 再度引っ張り出してきました。

みなさんは 決断するとき どうしてきましたか・・・。


最初に結論的なことを・・。

私でしたら決めるときは自分で全てきめて生きてきたので後悔も何もしていません・・。




だから他人のせいにしないように大事な物事をきめるときは 必ず自分できめてきました・・。
そうしたら・・逃げ道がないですよね・・・。あははは・・。結果は どうでるのかは わかりません・・が。

私は 人に誇れるもの・・・。貯蓄がある訳ではないし、美人の彼女がいるわけでもなし・・当然 もてないので・・、それは おいといて・・。人に これは まけんぞっていうものは いまは とりたてて ないのかもしれませんね・・。むかしは山ほどありましたげろ・・。
自分の中では 貧乏と暴力とのなかで そだち・・一時は食事もままならぬときもありましたけど そういったひどい環境でそだってきたのですが なぜか ぐれずに まっすぐそだってきました・・。

それは なぜなのか・・。異常に負けず嫌いだったのかもしれない・・。貧乏でも 服がつぎはぎだらけでも・・穴がほとんどの靴下でも 爪がみえる上履きでも・・いいじゃん・・。
大人になって りっばになったら それでいいんじやないのって おもっとりました・・。

毎日毎日・・今考えると・・よくいきとったと・・思うぐらい 酒浸りの親父の罵声と投げつけられるものの中で小さいときから そだってきました・・。そ らとぶ ちゃぶ台・・。目の前をとんでいくお皿・・そのほか・・・。あまりに ひどい状態で田舎では くらせず 意を決して 高知に家族ででてきたとき  私は一才でした・・。最初の家が 漫画みたいですけど・・屋根裏部屋で 三角の部分の所にすんでいました・・これは なぜかしっかり覚えています・・。さ すがにすみにくかったのか 一年経つかたたないかで 引っ越ししました。その後にすんだ家は 結構長い間すんでいまして・・。ついこの間迄 家はかたむい ていましたけど ありました・・。

その家で 寝たきりの爺さんと私が家の番をして・・わたしは ちっさな子供ができる範囲の爺さんのお世話です・・。
親父は 大工仕事を探して 走り回っていました・・。それだけでは 生活ができないので・・おふくろもちかくの木工所に仕事にいってました・・。
まだ 車もみることもなく自転車も数少ない時代でした・・。家の前の道路には 牛・馬が闊歩していました・・。道路で遊んでもだれも怒る人もいませんでしたけど ただ 馬とかの糞は よけて 器用に遊んでいました・・。

貧乏でしたけど それなりに毎日たのしかったです・・。テレビがみたくなったら近くの文具店の子供のところにあそびによって みせてもらいよりまし た・・。丁度「中央公園」の大丸に近い方に 街頭テレビが もうすこしあとであったですね・・たしかに・・。水銀灯みたいに高い位置に テレビがありまし て みんなで わいわいいいながら みていたものです・・。
毎日毎日・・酒の飲み方がひどくなると あばれて 困った親父でした・・。暴れ方がひどいと おふくろは 私を体でかばって(なげられた)ものにあたる ので たまに血もつれになっているときもありました・・ね。おふくろは いつも自分はぼろぼろになりながら私をかばってくれていました・・。

あるとき・・昼間に セメントをうっただけの土間で まだちいさい私がセメントの栗石にあしをとられて転倒、おでこをぶつけて はげしく出血しました。 頭の傷は結構 血がでますので・・。ねていた爺さんに 血がとまらないようと声をかけると ちりがみで強く押さえて止血しなさいとおしえてもらい・・。ち りがみとはいってももらってきた新聞紙をちり紙大にきって かさねただけですけどね・・。がさがさ・・音の出る ごわごわした新聞紙のちり紙?で一生懸命 傷口におしあてるのですが なかなかとまらず 血だらけになって 血もつれの新聞紙がそこらあたりいっぱいになりました・・。おおきなこぶができて けっ こうその盛り上がりがずっとのこって・・その後なぜか反対側も同様になり (パランスがとれたのか)きがついたらめだたなくなっていました・・。

せまくても一戸建て平屋の家から 今度は某小学校のちかくのアパートに引っ越し・・しました・・・。引っ越しして すぐ爺さんがなくなり 私は 一人になりました・・。
年のはなれた弟がうまれ またまた年のはなれた妹も生まれ・・。子守りは私の仕事になりました・・。小学校がおわると背中に妹を背負い 弟の手をにぎって  いつも学校のグランドであそんでいました・・。友達たちが遠くへあそびにいくというと (おふくろからのいいつけもあって)弟たちを遠く迄はつれてはい けないので なくなくがまんしていました・・。

(高知の中では)都会の真ん中でしたので 小学校の同級生は みんな こぎれいにしていました・・。同学年の中で 服とかきているもののぼろぼろなのは  私と私の友達の知的障害のある こころやさしいけどすこしだけみんなについていきにくい彼のふたりだけでした・・。私も貧乏なのといじめられても まけ ないので クラスのみんなからいじめの対象になっていました・・。こころやさしいかれもいじめられていたようです・・。きがついたら 私がかべになってい ましたけど・・。いじめられていた同士なのかからかわかりませんが彼もわたしも心がまっすぐなので 話があい よく彼の家にあそびにいってました・・。お 父さんお母さんは ずいぶんと高齢のかただったように記憶しています・・。(後年・・仕事で何回か その家の後にいったことはありますが 彼とはあえてい ません・・。)

あるとき学校で ほとんどクラスの全員に近い人たちが グランドで なにかの原因でわたしに 罵声と石を投げ始めましたけど わたしも自分は貧乏なだけ でだれにも迷惑はかけていないし勉強ではクラスのトップだったし なにいうとんじゃーって けんかはつよくないのですけど負けん気だけはつよくて・・。み んなにむかって 小石をなげておいまわしていました・・。石は直接はあたらないようには なげていましたけど・・。

その頃ぐらいから市内に仕事がすくなくて遠くの現場に泊まり込み(弟妹もつれて)で親父たちは仕事にいくようになりました・・。いわゆる「かぎっこ」に わたしはなっていましたね・・。まだ そのころそんな言葉は なかったですけどね。家に帰ってもだれもいない家で・・。さみしくて本屋でいろんな本を立ち 読みしていました・・。これだとお金はいらないから・・。

数年前に その小さいころすんでいた家が 朽ちて かたむいて まだ ありました。今は 駐車場になっとりまして ありませんが・・。それは 本当に ちいさい 小屋みたいなものでした・・。あらーこんなちっこいところに 四人ですみよったがやと 不思議な気持ちになりましたねー・・。
PR
URL
FONT COLOR
COMMENT
Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
PASS

TRACK BACK

トラックバックURLはこちら